2018年5月5日土曜日

両性性について

折口さんの本を読み続け、『死者の書』のベースになっている『山越の阿弥陀像の画因』や『神の嫁』を読んで行く。やはり彼の中にある女性性(私が行う場合は私の中にある男性性)に注目せざるを得ない。
薬物(コカインの常習)のせいか、時間軸と空間軸が入れ替わり、分かりにくくなっているがこれは映画のコラージュに発想を得て編集した結果のもの。それを整理して行くと実はお話としては非常にシンプルなもので、恋する折口さんみたいなところまでおりてくる。
で、その乙女ワールド見てみる最近。

両性具有の話についてはラッセルワーク(eonnnagata)をみていて気になっていたところ。おそらく舞踊の本質をつこうとするとそういうところに行き着くのだろう。大野さんのアルヘンチーナや土方さんの病める舞姫もそうだけれど、自身の中のもう一人の自分、俗にいうアルターエゴではなくアニマ、あるいはアニムスと呼ばれる存在。
ちょうど静岡にラッセルカンパニーの元同僚がきて女形で踊るという。なんと!しかもフラメンコとともに。シカゴ(あの映画の、です)ごっことかやってたよな、と懐かしい一方、今みると影響受けてしまいそうでやめておく。eonnnagataは結構残念な作品だったと思うのだけれど(私は日本というものを間違って伝えてしまったのではないかとかなり反省し落ち込んだ)、でもあの時ラッセルと話したことや私たちがみたことが、回り回って10年が経過したのち、こうして全く異なる新しいお話になるのだと思ったらちょっと嬉しいことだと思える。
私は私で
また新しいお話を作り出していきましょう。

ラッセルカンパニー時代に踊った作品の中でTransmissionはああ、人の一生は星のようなものだ、このきらめきの一つ一つが出会いと別れなんだと思ったし(今思い返すとAmanogawaとかってこういうところから来ているのだろうか)、cast no shadowはシチリアに沈むアフリカの移民の話で希望も何もなく、死にゆく身体をダンスにできるのかかなり考えさせられた(実際あまり売れなかった。テーマを選んだのは私ではないけれどいろんな意味で責任を感じる)。その時思った素朴な疑問や引っかかりは今も残っていて、永久に宿題のようになっている。
ドラマを作る人だからと言ってもらったその言葉、いつかみせてあげられますように。


建国体操で学ラン着ているのはそういう意味ではないです。
でも確かに高校時代の男装が一番モテたかもしれない。


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