2018年2月6日火曜日

身体の近代化

ここしばらく体操の日々をしていると、からだが硬くなっていくのがわかる。からだ本体が硬くなるだけではなく、動きの質も硬くなる。ダンス的にはちょっと困る。

もともとバレエなども身体の近代化のためのプログラムだったので兵役の訓練のためにも行われていた。三浦雅士の『身体の零度』でも触れられている。いかに正確に合わせて動くことができるか、からだをいかにコントロールできるかということが問われてきた。しかし自分の意思で動かす比率が高くなればなるほど、ゆるみは失われていく。自分以外の環境要因や気配、音などにより動かされている状態、自身の意思がなくなる状態になっていくほどからだ自体はゆるんできて、また感覚は鋭くなる。
民俗芸能の須藤先生は「ふみふみかえる、いきいきかえる」という。
足踏みを繰り返しながら土のエネルギーを体に入れ、そして循環して土に返していくそういう作業がある。力技ではなく優しい足だ。

人の振付を踊る際にはコントロールが必要で、その作家のベースとしているテクニックを入れながら踊る必要があるが、本当に豊かな表現性は柔らかなからだからしか生まれてこない。バレエもまたある一定のところを超えると開放していくのだと感じる。だから私のワークショップのタイトルは「ゆるやかでのびやかなからだをつくる時間」。
心地よいからだはみていても美しいと私は感じる。
体操に慣れていないから硬くなってしまうのかというとそればかりではない。特に今回扱っている建国体操などが力をいかに込めるかにフォーカスが行われているせいではないかと思う。
近代化する身体を体現するために体操の数々を実践してみている感じがする。逆にいうと今やっている私の動きは脱近代、脱魅せるからだ、脱-力技なのかもしれない。

お世話になっていた師匠がなくなり、彼女の踊りを踊らないのであればバレエを続ける必要はないのではないかと思い、徐々にバレエ比率を減らしていく。あるがままにもどるための作業、それでもからだにいろいろ染み付いているものなのかもしれない。(3歳からやっているというのはやはり恐ろしい)


バレエに限らずこれまで携わってきた様々な踊りはすでに染み付いている。だから滲み出てしまうもの。生き方と一緒。

それが表出。

表現ではないだろう。
私みて!をこえてはじめて見えてくる。そこから始まる。
でもそこに気がつける人は多くない。

あなたはなんのためにダンスをおどりますか?


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