2015年2月17日火曜日

イギリス コミュニティダンスについて


イギリスについては元々コミュニティダンスについての調査としていっていることもあり、人に会う作業などが中心になっています(なお、イギリスでは基本的にビザの問題も起きるので踊っていません)。

今回特に大きかったのはプレイスのクリス トムソンに再度お話を伺ったこと、またオクスフォードにセシリアマクファーレン本人の現在教えているクラスをみてきたこと、また彼女自身の作品(日本をテーマにしているそうで、なぜかこれまた琴奏者の方とのコラボレーション)をみたことでした。
またその真逆ともいえるラッセルマリファントさらに元同僚のアレックスとあい話すことができたこと、その中間ともいえる竹川さんやアシュフォードさんの視点から自分が今すべきことをまた改めて考えさせられました。

それらをふまえ、さてコミュニティダンスとは何だろうかというのが現在の私の疑問ともいえます。

そもそもコミュニティダンスという言葉はイギリスで盛んに行われているコンテンポラリーダンスを一般へと普及させる運動のうち、地域コミュニティを形成するようなものをさしていました。町おこしや劇場の思惑もあり、アーティストが町の人とともに作品を作るようなイメージが皆さんの中にもあることでしょう。
実際イギリスのコミュニティダンスはこの30年ほどで大きく進化しました。
現在はコミュニティダンス財団が中心となって指導者の育成やネットワークづくりを行っています。
http://www.communitydance.org.uk


ダンスをいかに広めていくかという問題はダンス学校を多く抱えるイギリスではかなり重要な問題だったと思われます。一般の人へとダンスを広めるような活動をする人を供給するということでダンス学校卒業生の受け皿を作りはじめたともいえます。ファシリテーターをしながらダンスを続ける半分ダンサーが増え、それがイギリスダンスの多様性を生み出すようになったとも思います。(今でもヨーロッパ大陸のダンスとは大分雰囲気が違うのですが)
政権交代、アーツカウンシルの助成金大幅カット、それに伴うクリエイティブパートナーシップ制度がなくなるなどかなり過酷な現状ではあったものの、大きくこのような活動が広まったのはオリンピック関連でおこったイベントBig dance 2012によるものと思いました。Big danceはロンドンオリンピックに関連しておこったダンスイベントで聖火リレーの進行にあわせて町中、競技場などでの大規模なダンスパフォーマンスが行われ、それらの多くが市民参加によるものでした。
それらのイベントは大々的に報道され、また家族友人を含め多くの人が観客としてダンスに触れるきっかけとなりました。

これらのダンスイベントがコミュニティダンスイメージをつくり、またおそらく日本でもそれに近いことが起こりえるのではないか。よさこいソーランや盆踊りの例があるように熱しやすくお祭り好きな日本人はよりいっそう踊りで盛り上がるのではないかと予想されます。(そしてそれをイメージしてJCDNのファシリテーター養成講座などはできたと思われます)

さて、今回セシリアさんのクラスを拝見しました。
彼女の温厚かつパワフルな人柄に子供たちはあつまってくるのか、4つのクラス(年齢層ごとに分かれていて1時間ごとに違う年齢層をみることができてとても勉強になりました)は常にキャンセル待ちの大人気とのこと。一度入るとやめないので入れない子供たちも多くいるのだそうです。小さい子たち(3−5歳)は絵本をもとにお話を紡ぎだし、上の方の学年(9−11歳、13−15歳)などはグループに分かれて自分たちで作品を作らせるようにするなどの工夫もみられました。また卒業生や年長生が年少組をサポート、教えたり、相談役になったりしているのも特徴的で、このような循環を起こすことで、学んだ知識をまた人に伝えながら学ぶことができると思わされました。(タカセの夢の今後の野望でもあります)
しかしながらクラスが継続的に運営し、同じメンバーが集う形になり、またセシリアさんが先生となってしまうことにより、日本でいうとお稽古場のシステムに近い形態になっていることも事実です。実際に地区のアートスペース(教会の横にあるスタジオ)を借りて(当然費用を払っている)、子供たちからも月謝をとり、運営を続けている。この基本ベースがあるからこそセシリアさんの生活は成り立ち、また様々な活動を行うことができているわけです。
また卒業生の中にはダンス学校(プレイスをはじめとする専門学校や大学など)へ進学し、実際ダンサーになった子もいるのよと話すセシリアさん。
こうして考えるとコミュニティダンスと日本のお稽古場のダンスって何が違うのだろう?と思いはじめました。手法に少々遊びの要素が入っている、各自の創作時間が長いなどの違いはあれどあまり差はないのではないか。
そこに公共財(税金、助成金など)を交付することってどうなのだろう?
それをビジネスの一つととらえるならばまた違ったアプローチがでてきてもいいのではないかと思ったりもしました。(日本だとその違ったアプローチというのはエイベックスなどのスクールなのかもしれません)

現在コミュニティダンスという言い方はJCDNが広めようとがんばっているもので、それに付随した動きもいくつか起きています。が、まだまだ一般的ではありません。そのため各種イベントも点々としており、それ故に、その継続性のイメージも見えていない。
継続しつつ、そのまま広げていくことへ繋ぐことができるのか、新しい出会いを作り出し続ける工夫がなければ”コミュニティ”ダンスとはいえなくなっていくのではないかなどということを考えさせられました。



コミュニティダンスという言い方には実は裏があって
ハイアートともいうべき先端芸術のダンスと一般普及型のダンスとが分離している現れでもあります。(これはオリンピック選手を育てるJISと総合型地域スポーツセンターの関係にも似ている。先日の修論発表で英国バドミントン協会の組織図等をみるとよりいっそうそう思う)
その垣根をこわそうとする爆弾のようなものがタカセの夢の形であると考え、携わるようになって5年。
さらにいうと私は最終的に運動はシンプルなものに集約されていくと考え、また全ての人に内在しうると考えるようになり、AMANOGAWAプロジェクトをはじめました。おそらく古くから伝わる芸能にはそのヒントがたくさん詰まっており、ダンサーという職業はなくなっていくと捉えています。

すべてのひとがおどる、そんな理想をもっています。






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