2014年12月31日水曜日

かみさまとは

かみさまとはなんだろうか、とながく思っていた。
私が踊っているときに導かれる気配だろうか。
いやそれは義経さんが(つまり役柄としての私の思念が)ひっぱったのではないか。
気配とともに踊りながら、考えていた影の存在をIchIで実際にダンサーさんに踊ってもらうことで明らかにしようとしたが、実在することで見えなくなってしまう。
仕方がないので再び一人で踊りながらこの気配を考えている。

銀河鉄道の夜でジョバンニはこんなことをいう。

「あなたのかみさまってどんなかみさまですか」青年はわらいながらいました。
「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人ひとりかみさまです」
「ほんとうのかみさまはもちろんたった一人ひとりです」
「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうのほんとうのかみさまです」

ジョバンニは違う神さまだと感じていたようだが、賢治はすべての人にそれぞれのかみさまがいると思っていたのではないか。それぞれの生き方それぞれの祈り、それぞれの想いがあるので他者を否定する必要はない。
さらにそれはかみさまはほかにいるのではなくその人自身がかみさまであると思っていたのではないか。すべての人がすべての生命が、すべての物質がかみととらえること。かみさまは既にその人に内在している。
彼は仏教徒であったはずだが、言葉の節々にそんな思想がかいまみれる。だからこそすべての人が芸術に携わるべきと思い活動していたのではないか。またこのようなキリスト教を連想させるシーンが挿入されているのではないか。

かみさまという自我を超えた別存在を作り出すことで、社会が成り立ってきた歴史がある。これはこれで素晴らしい人類の智慧であると思う。キリスト教の歴史をたどると迫害を受けた時代、遠方へと手紙で伝導しようとした時代など時代をおって聖書の書き方、言葉の選び方が変わっているという。本来のキリストの意思や意図を超えてその使徒たちがつくりだしてきた文化であり文明。

その中には様々な軋轢があり分離独立も多々あり、今も一口でキリスト教といえないくらいの層の厚さと幅がある。そこから学ぶことは多い。



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