2014年1月25日土曜日

私について(「からたちから」から「静」への移行①)

「からたちから」でキリスト教について考えていた。
キリスト教では私と神との契約。私がいて神がいる。父なる神がこの世界をつくったけれどもそれを信じるか信じないかは私次第であり、私が祈る。
「私」というものをどれだけ重視しているかということを感じ、それゆえに自分について語るというところからスタートした。「からたち」はほぼ自分語りだけで終るが、「からたちから」はダンス色が強くなった。しかしいずれもあくまで自身の内省であり、神への語りかけに終始する。

礼拝台にのるが、それはユダとしての言葉ではなく、あくまで生け贄の子羊になってみた(つもり)であり、私はのった瞬間こひつじの丸焼きのようなものを想像している。「からたち」の制作時期が受難の時期だったこともあり、あのシーンはそのイメージが色濃く残っている。そのときも私は神に話しかけている。私と神との対話を観客はかいまみているということになる。(たとえそれが一方通行だったとしても)



ここしばらく日本の民俗芸能をみたり、白拍子舞についてしらべたりしているが、その中で思うのは我の消失。つまり私というものがなくなっていく。能のように役柄があり仮面をつけて演じるという例だけではなく、集団でのカオス状態(花祭の湯ばやしなど)、円舞(郡上、風の盆、西馬音内などの盆踊り各種)、神への祈りは私が単独でするものではない。さらに顔を隠し、誰かがわからない状況で、さらに自分もお酒を飲みつつ朦朧としながら「くる」のを待つ。そして皆で楽しむというのがお祭り。
神が何をよろこぶかなんて誰にもわからない。だから謎のお祭りがたくさんあり、伝承されてきている。(そのいくつかにはきっと神が喜んだのであろうなにか良いことが起きたに違いない、たとえ偶発のものであったとしても)
歌舞伎など人に見せる(魅せる)要素が強まってしまったものもあるが、古くから続く民俗芸能の多くはもっとシンプルでもっとわかりやすい。(幸若舞なんて8の字にあるくだけだ)それは娯楽が少なかった時代だからということだけではなく、魅せるということは必要なかったのかもしれない。

伝承できるということは私ではない他の人でも可能だということであり、その伝承が地域のコミュニティを形成してきた。地域でひとつ。だから自分を主張する必要もないし、私という存在はいらない。
そんなこともまた真逆なのだということに気がつく。




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