2010年10月30日土曜日

言語の使用について

今回様々なコメントをいただいてますが、
言語の使用についてここまで多くの声をいただくとは思っていませんでした。大きく分けて2種になります。
①そもそもこの作品に言葉は必要か
ダンスなのだから言葉をつかわずに表現することをつらぬくべきではないか
②寺山修司は必要か
最後の寺山詩はとても印象深いとともに、他人の言葉でしめくくっていいのか?というきがする。

①について
言語の持つ力は強い。だからそれをおさえないと身体の表現が消えてしまう
のではなく
言語の持つ力は強い。身体の表現はそれを越えるのか
と私は思う。
演劇を多くみてきて、しかし私は台詞と台詞の間の目のやり取りや、空気の変化の方が気にかかっていて、言葉そのものではなく言葉から膨らんだイメージをみているように思っている。言葉の意味を越えたなにかの集積ができないかと思う。
が、しかし今回素のきのをだすために苦手な言葉を利用したのは認めざるをえない。言葉を普通にしゃべる時、私は確実に普通の木野彩子になる。(今回は演劇ぽかったという声もあるが、劇場が大きかったのと、緊張具合のせいもある)そういういみで利用し、しかしそれを裏切るようにラストの絵がある。と私は構成してみたが、裏切れたのかどうかは不明。
そこに詰めの甘さがあるのかもしれない。
なお、杉劇チームの台詞はきの作成ではなく、既にあったレパートリーからきているもの。電車等、あまりにイメージがぴったりだったため、この作品のためのものだと思った人も多いが、違う。

②について
きの祖母の台詞をもっといかせなかったのか、寺山じゃなくてもよかったのではという声も大きい。ただ、正直にいえば私がかえってきて1年。いろいろ祖母とも話すが、祖母の声を聞ききれたとはいえない。できるだけ時間を過ごすようにはしたものの(そして録音もとったものの)長い間の不在、そして孫と祖母という関係ではやはり距離がある。そう簡単に言葉を拾うことはできなかったというのはある。
1年。長いようで短い。
そして短いようで長い。
私はこのクリエーションをできてとてもよかったと思っているが、本当にはじまるのはこれからだとも思っている。
また、一方でこのクリエーションを木野家個人の話しにするのではなく、ある種の普遍的なものにつなげられないかと考えた結果として杉劇チームや寺山修司詩におこしいただいた。
寺山詩にであったことで、この祖母のお話は私本人の話しとなった。そういう意味でこの詩なくしてはこの作品は終わらなかっただろうと思われた。
プログラムに全文を掲載したのもそのためです。

しかしながら、
言葉に対する言及はもっとなされるべきだったという舞踊関係者の声は多く、
(ちなみに声はよかったという演劇関係者のこえもあるがおいておく)これについては次回作以降に持ち越しの議題としたい。

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